Connecting the Dots 1
Connecting the dots 「点をつなげること」という言葉をご存知でしょうか。
Appleの創始者であるスティーブ・ジョブズ が、スタンフォード大学の卒業式にゲストスピーカーとして招かれて行った伝説のスピーチの中で語られたものです。
アメリカの大学では、その卒業式にゲストを招き、卒業生に向けてスピーチをしてもらう、というのが習わし。これを Commencement Speech といいます。
commencement とは動詞 commence 〜「〜を開始する」に、名詞を作る接尾語の ment をつけてできた単語。
Graduation Speech じゃなくて、「そこからの人生のスタート」という意味でCommencement Speech というのがいいところです。
ジョブズはそのスピーチの中で卒業生への人生のアドバイスとして、
・心から好きだと思えることを見つけること、探し続けること
・他人に流されず、自分の心と直感に従って行動すること
と並んで、Connecting the dots(点をつなげること)を挙げました。
彼自身、
生まれた時に養子にもらわれた
産みの母は、養父母の条件として、大卒であることを挙げていたが
実際は養父母ともにそうではなかった、でもジョブズを必ず大学に進学させることを条件に彼を引き取って育てる
ジョブズは成長し、労働階級の両親が必死で貯めたお金で高額な学費がかかる大学に入ったけれど、そこに希望が見いだせずにやめてしまう
退学後も大学でブラブラしながら自分が興味がある授業を聴講
その中の一つが calligraphy。calligraphy とは西洋版の書道のこと。そこでそれぞれの書体の持つ美しさを知る。
その当時、それが自分の将来にどう活かせるか、なんて展望は全くなく、ただ興味の赴くまま学んだことだったが、しかし後年Macを開発していた時に、あの時のクラスで学んだたくさんの書体について思い出し、それをMacに採り入れることを決めた。
もし大学を退学しなかったら、そしてcalligraphyの授業を聴講しなかったら、Mac はあの美しいフォントを持たなかったはず。
「その時の自分に純粋に興味があったことをやっていただけ、それが後から振り返ると線でつながったのだ、だから、あなたたちも、いまやっていることがいつが一本の線でつながることを信じて、好きなことをやりなさい」というのが彼のメッセージ。
この Connecting the dots が自分の英語との関わりにピッタリとハマったのです。
少し長くなりますが、その英語を習得するまでの道のりの「点」についてお話させてください。
①大学まで勉強を重ねたのに英語が使えるようにならなかった
子供の頃からいつか英語が使えるようになりたい、と思っていました。そして先生の言うとおりにしっかり勉強すればそこにたどり着けると考え、勉強を重ねます。
結果、一浪して早稲田大学に入りますが、受験科目としての英語は得意になってもまったく会話はできませんでした。自分だけでなくクラスメイトにも英語が話せる人はいませんでした。
その後も英会話スクールに通ったり、高額な教材を買って勉強したりしましたが、会話ができるようにはならず
結局英語が話せるのは
①中学から英語の魅力に目覚めて、ラジオ講座などをコツコツ聞き続けるなど、とんでもない時間を捧げて高い英語力を身につけるに至った「英語の申し子」のような人か
②帰国子女、あるいは海外への留学経験があるなど、英語圏で英語を身に着けた人
のどちらかで、普通の人が日本にいながら英語を身に着けることは不可能なんだな、と結論づけます。これは本当に大きな挫折体験となりました。
以来、英語は完全に避けて暮らすように。
②浪人の反動から勉強欲が一切なくなり、留年するほど落ちこぼれる
「いい大学に行けば幸せになれる」と信じて浪人してまで第一志望の大学に入学しましたが、その反動で燃え尽き症候群のような状態になり、新しいことを学びたい、という欲求がゼロに。
さらに国語は得意だったはずなのに、自分が選んだ法律の分野で使われている言葉は、誰が読んでも同じ結論に行き着けるように、文章の装飾を一切省いた、無駄のない論理だけを伝えるもの。これが全く頭に入ってこない。
それで嫌になり、授業も受けず、ただただ麻雀をする日々。一年で取れた単位はたったの8で、すでに4年での卒業は不可能に。
③ゲーム廃人と化し、大学に7年通う
友人は皆4年で卒業してしまい、麻雀もできず(!)、家でひたすらゲームをする日々。当時はそんな言葉はありませんでしたが、今で言う「ニート」の走りです。
そんな自分のダメさに嫌気がさし、このまずい状態からなんとか抜け出そう、といろんなこと(宅建の勉強など)に手を出しますがすべて三日坊主で、気がつくとまたゲームで徹夜をしている、という状態。
大学に7年通ったと書きましたが、実際は通っていません。ただ籍をおいていただけ。今から振り返ると、この時期が一番精神的にきつかったです。
④父親の定年、家を出て職を探す → 塾の国語教師に
規定では大学には8年はいられることになっていましたが、自分が7年の時に父親が定年を迎え、それまで住んでいた横浜の家を売り、母と一緒に故郷の九州に戻ることに。
ゲーム廃人であることを親戚に知られたくない(それとニートのくせにいっちょ前に彼女がいて、その娘と離れたくない)、という一心で、住んでいた横浜にとどまる道を探します。
ただ、住む場所を探すにもまずは職が必要。ずっとゲーム三昧だった人間が、職探しと部屋探しを同時に、という無茶すぎるタスクに臨むことに。
それまでのバイト経験といえば○川急便の配送所や工場での深夜バイトなど、短期のきつい仕事ばかり。根性のない自分にそれがずっと続けられるとは思えませんでした。
あとひとつ、バイト経験があったのが塾の講師。教えることは好きでした。職探しをしていた時に正社員を募集している塾を見つけます。しかも寮も提供してくれるということ。すぐに電話をかけて面接へ。
面接の手応えはよく、採用となったのですが、教師になるにあたっては、数学か英語のどちらかを「専門教科」として選ばなくてはなりません。
数学の力はゼロ(大学入試は英・国・日本史のみ)だったので、英語しか選択肢はありませんでしたが、
かといって、英語が使えない自分が英語の教師になれば、同じように受験英語は得意になっても英語が話せない生徒を育てて終わり、それだけは避けたい、
そこで粘り強く交渉したところ、その塾で初の国語の専任教師として雇っていただけることに。
⑤「英語が使えない」英語教師の存在 → もしかしたら本当に英語が使えるようになる道はあるのではないか、という希望が生まれる
その塾は教師の育成に厳しく、教師は毎週の研修(先輩教師が生徒役となって、その前で授業を行い、厳しいダメ出しをくらう地獄のような時間)に加えて、
年に一度の評価テストを受けることになっていました(その結果が給料に反映されるので皆必死に勉強します)が、
当時は国語の評価テストがなかった、という理由で英語教師用の評価テストを受けることに。それがTOEICでした。
結果は460点。まぁこんなものか、と思っていたところ、驚いたことに同期の英語教師のスコアもほとんど変わりませんでした。よくて500点台とか、600点台なんて一人、二人というレベル。
先輩教師の中には800点台の方もいましたが、皆留学経験がある方ばかりでした。
当時はまだTOEICが一般的でなく、どういう試験かということもわかっていなかった、ということもあるでしょうが、英語が使えない教師が英語を教えている、という事実を知って衝撃を受けます。
日本で英語教育を受け、英語が使えるようにならなかった人が、自分が習った英語を教えている、という悪循環。
当然生徒たちも同じように入試問題は解けるようになっても会話で英語を使えるようにはなりません。
ただ、それは一方で一筋の光明のようでもありました。というのは、それまで英語が使えるようにならなかったのは、自分に問題があるから、だと思っていたからです。
でも違う、もしかしたら自分が教わった先生も、どうやったら英語が使えるようになるかを知らず、自分たちが教わった受験英語をそのまま教えていただけではないだろうか。
自分が悪いのではなく、教師・カリキュラムを含めた「教える側」に大きな問題があったのでは?と思うに至ったのです。
だとしたら日本人が日本にいながら英語を使えるようになる道がどこかにあるかも知れない。
ただ、だからといって、英語をゼロからやり直そうとまでは思いませんでした。それがどれほど大変かは容易に想像がつきましたし、国語の教師という自分の仕事だけでもう手一杯でしたから。
明日につづきます。